神は確かに存在するが、安易に「神の罰」などという言葉を使うのは誤り

ハイチ大地震は「神の罰」か - ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
http://newsweekjapan.jp/stories/world/2010/01/post-915.php

人間風情が神のことを語ることに無理があるのは前提として、I.S.は理神論的な立場を取っていますので、神の罰などという発想はないです。

神がいないことを証明することはできませんので、神はいないとは言えませんが、自然を観察するに、どうやら一貫性のある法則はあるようだというのは何となく分かるlevelにはあるつもりです。どんなに足掻いても、その法則からは逃げられないだろうというのがI.S.の帰納的な考えです。I.S.は無神論者ではありませんが、人格的な神を信じているわけではありません。

宇宙の法則が神としても、世界には様々な宗教があってそれぞれに人格的な神がいます。それは空虚な迷信なのでしょうか。I.S.はそうは思いません。国や金と同じで神も共同幻想だと捉えています。国というものは形は見えませんがあります。国会議事堂や首相官邸最高裁判所が国ではありません。日本列島が国ではありません。国とは概念上の存在です。

金も同じです。金は印刷された紙であったり、離散的情報だったりしますが、人は金はあると思っています。金のために働く人がいます。紙切れや数字に価値を見出しているのではなく、金という概念上の存在に価値を見出しているわけです。

人格的な神も同じです。人の形をした光輝く存在がこの世のどこかにいるのではなく(いるかもしれませんが)、概念上の人格的な神を自分たちの支配者として置くことで、社会が成り立っているわけです。神とは枠組みであって、物理的な存在ではありません。

ですから、神を信じる人たちにとっては「神はいる」のです。これは紛れもない事実です。目に見えないから神はいないなどと言う人は短絡的すぎます。目に見えないから国はない、金はないと言っているのと同じです。Programming経験者は理解しやすいでしょうが、pointerとかclassとか関数とか配列とかが目に見えるわけではないですが、それらは確かに存在します。

Haitiの地震はもしかしたら神の罰なのかもしれませんが、それを確証する証拠でもないかぎりそうだと決めつけるのは誤りです。自然は人間たちの思惑など関係なく遷り変わっていきます。今回の地震で何が不幸だったかと言えば、地震への十分な対策がなされておらず、対策さえしていれば助かった命が多かったことでしょう。

冬の寒い地方の屋根のないところで寝れば風邪を引きやすいでしょう。風邪を引かないようにするには暖かい家で寝るべきです。地震も同じです。地震は地球であれば発生するものです。人間にできるのは地震が起きても死なないようにするための数々の努力だけです。