学校という「虚構」があればこそ

学校の制度性について、など - 内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/2009/11/06_1854.php

興味深く読めました。なるほどと思える点もあれば、「そうだったのか!」と頭を殴られたような衝撃もあり、もっと早くに読んでいればよかったのにと思いますが、この記事の主旨からすれば、知らないでいたから意味があったというわけで、複雑な心境です。


要点を纏めると以下のとおりです。

  • 伝統的な教育programは変えないほうがいい
  • 学校制度には儀礼的な部分、虚構が必要
  • 浅薄な合理性は子供にとって好ましくない


I.S.自身学生時代は学校の非合理性に苦労したくちですが、学校は苦労するように作られていたようです。

自己利益の確保を最優先する人間は、自己利益を効果的に確保することができない。
私がそう言っているわけではなく、ジョン・ロックやトマス・ホッブズがそう言っているのである。
私もそう思う。
同じように、人間が知的ポテンシャルを一気に向上させるのは、「自分が何をしているのかよくわかっている」ときではなく、「自分が何をしているのか、よくわからない(でも、もうすこしでわかりそう)」ときである。
学校教育とはこの「自分が何をしているのか、よくわからないけれど、なんだかもう少しでわかりそう」という状態を長期にわたって継続させることをめざして制度設計されている。
学校をめぐる「儀礼」の多くはその「わからないけど、わかりそう」というグレーゾーンに子どもをとどめおくために、きわめて巧妙に構築されているのである。
学校制度を構築している無数の「よく意味のわからないきまりごと」については、これを軽々に「合理的」判断に基づいて改廃すべきではない。

合理的、合理性という言葉は難しいもので、単純に利己的な判断に基づく合理性もあれば、自己と他者との関係性まで視野に入れ、一見非合理なことであっても受け入れる、深謀遠慮に富んだ合理性もあると思います。この記事で言われている「儀礼」、「虚構」が合理的な判断から採用されているとも言えるのではないでしょうか。

言葉遊びかもしれませんが、合理的とか合理性という言葉に何らかの修飾がなければ、意味がないのではないでしょうか。まあ、だからこそ括弧付きの「合理的」なのでしょうが。

学校は一種の劇場である。
そこで教師たちは「教師たちの役」を演じているのである。
そして「楽屋」の一部は必ずこどもたちに開示されている。
子どもたちは教師が「仮面」をつけ「衣装」をつけた俳優にすぎないということを知る。
だからこそ教師が教える内容は、どれほど過激であっても、どれほど間違っていても、子どもたちをそれほど深く損なうことはないのである。
もし「学校の虚構性」を構築している制度的装飾をすべてはぎとって、そこを例えば「教育商品と代価の等価交換」が行われる生の現実だというふうに提示すれば、子どもは取り返しのつかないかたちで傷つく可能性がある。
舞台の上のできごとを「100%の現実」と錯認する観客がどれほどの衝撃を受けるか想像すればよろしい。
学校の制度性・儀礼性・虚構性は子どもたちを「現実」から守るためにある。

とは言っても、学校で行われていることを虚構だと思える子供がそれほど多いとは思えないのですが、どうなんでしょうか。一部のませた、機転の効く子供は別でしょうが、多くの子供は学校で起こることを虚構でなく真実として受け止めているのではないでしょうか。


ともあれ、この記事を読んで、「合理性」や「合理的な言動」ばかりが持て囃される現代において、長い年月を経て醸成されてきた経験知をいかに評価していくかが大切になってきているように考えさせられました。